レッチワース・ガ―デンシティー小史

レッチワース・ガーデンシティーの創始者であるエベネーザー・ハワード。
レッチワース・ガーデンシティーの創始者であるエベネーザー・ハワード。
ハワードは田舎と町の良い所取りをしたアイデアを、ここでは3つの磁石の例を挙げて説明をしている。 建築家バリー・パーカーとレイモンド・アンウィンは、ハワードの新しいコミュニティーのデザインを基に「マスタープラン」をデザインした。 パーカーとアンウィンのファーストプラン。1904年 ハワード・パークは、レッチワース初の最も重要な計画的オープンスペースとなった。 1905年に建設されたミセス・ハワード・メモリアルホールは、エベネーザー・ハワードの最初の妻の名が名称のレッチワース初の公共建造物である。 スキトルズ・インは初期のレッチワースの施設であり、アルコールをサーブしないパブであった。 ピクチャープレースは、1909年に建設された英国初の専門映画館。 メイデーセレブレーションは、初期のガーデンシティーの生活の中でとても重要なものであった。この行列は1909年の物。 イックニールド・ウェイのアーモンドの木。レッチワースの木々に囲まれた美しいストリートのひとつ。 この建物内のスピレラ・コルセットカンパニー社は、1912年から1920年の間に建設され、「田園のファクトリー」と呼ばれた。 レッチワース・ガーデンシティーの今日:町の中央に位置するブロードウェイ・ガーデン・ファウンテン。 レッチワース・ガーデンシティーの今日:美しい木々に囲まれた通りのひとつであるブロードウェイ。

レッチワースは、19世紀後半英国の田舎での仕事の無さ、都会生活の貧困、不潔さの解決法として作られた世界初の田園都市です。エベネーザー・ハワードの、田舎の健全さと町の快適さを組み合わせるというアイデアを基にしてつくられたレッチワースは、国際的なムーブメントへのインスピレーションになりました。

1903年にファースト・ガーデンシティー・リミテッド社はハワードのアイデアを証明する為、レッチワースの土地に3,818エーカーの実験的な町の建築を始めました。その後田園都市は現実となり、この独自の町の運営と開発からの利益が、直接町のベネフィットになっていったのです。

エベネーザー・ハワードの真新しいコミュニティーのデザインを利用した初の田園都市のマスタープランのデザインは、建築家のバリー・パーカーとレイモンド・アンウィンに託されました。

彼らが考え出した1903年のレイアウトプランは商業的、そして工業的開発、幾つかの種類の異なる住宅地、そして農業ベルトというエリアを区別する土地の利用法の原則に基づいたものでした。このプランはその後、20世紀の環境基準となっていったのです。

その後バリー・パーカーとレイモンド・アンウィンは、英国都市計画においてのメジャーなパイオニアの2人となりました。彼らは生涯、ビジョナリー・デザインにおいて、世界中から素晴らしい評価を受けました。

レッチワースの人口は1900年代前半に急激に増加し、1905年の「チープ・コッテージ展示会」のホストとなりました。この大イベントは、建築家達にとって労働者達へ値段の手ごろな住居を提供するというチャレンジを与え、町に60,000人もの訪問者達を呼び寄せました。

始めのうちは、レッチワースにビジネスを呼び寄せるのに困難を要しましたが、町の産業は次第に繁栄し始めたのです。スピレラ・コルセットファクトリーで有名なスピレラ・ビルディングは1912年から1920年の間に建設され、地元の雇用のかなめとなっていきました。

その後の町の歴史では、敵対的な地所の引継ぎなどの問題も何度か発生しました。

100年以上経った現在、地所では未だファースト・ガーデンシティー・リミテッド社の原理に沿った運営がされています。今はレッチワース・ガーデンシティー・ヘリテージ財団と、インダストリアル&プロビデント・ソサエティによって所有、運営されています。詳細はwww.lgchf.comまで

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